00.喫茶去(きっさこ)の持つ意味とエピソード

喫茶去(きっさこ)って、聞いたけど、正確にはどんな意味なのだろう?
そう思って検索されているかもしれませんね。
結論から言えば、「お茶でもどうぞ」という意味になります。
言葉はシンプルです。
しかし、その背景にあるエピソードや意味まで知ると、実際にご自身の生活に活かせるメッセージが見えてきます。
そこでこの記事では、下記のポイントをまとめています。
👉喫茶去が伝えるメッセージ
👉喫茶去に現代を生き抜くヒントがある
この記事を読むことで、喫茶去(きっさこ)の意味や背景が分かり、それを深めて生活に活かすことができるようになります。
私自身、喫茶去(きっさこ)から拝借し「きつさこ」という名の会社を設立するほど、大切にしている考え方です。
ぜひ気軽に読んでみて下さい。
01.具体的なエピソードから喫茶去の意味を知る

喫茶去のエピソードは、中国の古典から生まれています。
時代は「唐」(618-907)、今からもう1000年以上前の世界のお話です。
唐の禅僧・趙州禅師(じょうしゅうぜんじ)という人がある山寺にいました。
そこに、ある日ふと修行僧がやってきました。
趙州禅師はその修行僧にお尋ねになりました。
「あなたはこれまでにこの寺に来たことはおありですかな?」
修行僧が答えます。
「いえ、初めてきました。」
趙州禅師は応えます。
「喫茶去(では、とりあえずお茶でもお飲みください)。」
また、別の機会に、違う修行僧がやってきました。
同じように趙州禅師は尋ねます。
「あなたはこれまでにこの寺に来たことはおありですかな?」
その修行僧が答えます。
「はい、以前来たことがありまする。」
趙州禅師は応えます。
「喫茶去(では、とりあえずお茶でもお飲みください)。」
この2つの様子をどちらも見ていた寺院の院主(事務を司る役職)が、不思議に思って禅師に尋ねました。
「これまでにこの山に来たことがあってもなくても、お茶をお出しになるのはどういった意図があってのことなのでしょうか?」
趙州禅師は応えます。
「院主さん!喫茶去(では、とりあえずお茶でもお飲みください)。」
こんなエピソードが、南宋時代の『五灯会元』という書物に残っていることから「喫茶去」という言葉が現代にも伝わりました。
02.喫茶去から学べるメッセージ

さて、このエピソードがなぜここまで長らく僕らの祖先の心を打ったのでしょうか。
解釈は様々ですが、最も一般的なメッセージは、
「どんな相手にもおもてなしをなす心の余裕をもつ境地の素晴らしさ」
というものです。
ここに来たことがある人は素晴らしく、一方で来たことが無い人は素晴らしくない。
誰にでもお茶を勧めることの素晴らしさが分からない人は、ダメだ。
本当に、心の余裕のある境地に達した人は、そんな区別はしないのです。
何かが欲しい、自分は偉い、出世したい、など強い欲に満ち心に余裕がなければないほど、何かの基準で区別をしがちです。
貴賤の差もなく、誰にでもお茶でもてなすその境地が素晴らしいとされる理由です。
皆さんは、どう感じましたか?
さて、ここから現代を生きる我々がこのエピソードを、
どうかみ砕いて理解すべきかを考えます。
03.喫茶去から学べる現代を生き抜くヒント

私自身は、喫茶去のエピソードに込められた「心の余裕」にこそ本質があると思っています。
そして、それが急速に加速する現代において、一層大切になっていると感じるのです。
現代の特徴を挙げるとすれば、
(簡単にブロックし合ったり、誹謗・中傷が止らない現実)
②日々、自分とは無縁の人の情報がどんどん入ってくる
③技術革新とともに「当たり前」の変化が急速になっている
恐らく、この現代を「面白い」と感じる人もいれば、
一方で「疲れた」と感じる人が多いのも事実ではないでしょうか。
そんな時こそ、喫茶去の心の余裕を意識するのです。
①自分が出会った人を広くもてなす心の余裕
②その一方で、目の前の相手をしっかり見つめる心の余裕
③時代の流行りに流されず本質を見る心の余裕
時代に流されていくのではなく、
自分がどこか余裕をもって人と接し、活動することを
意識していくことが大切だと感じます。
そこで、お茶です。
お茶を生活の合間に、相手との間にワンクッション挟むことで、ふと余裕をもって目の前の物事を見やすくなります。
お金・お金・お金!
異性・異性・異性!
最新・最新・最新!
そういった表面的なものに踊らされた状態は、心の余裕がない状態です。
そうではなく、余裕をもって目の前の人間の心を見つめて、日々を営む。
それが結果として、豊かな人間関係、充実した生活や成果につながっていくのではないでしょうか。
少なくとも、私はそう思って、今日も「きつさこ」の事業に邁進しています。
余裕がない時ほど、お茶で一服です。
では、また。